2019年11月29日

プーケット近海で座礁  

クルワジ ヨーロッパの小型クルーズ船ラ・ベル・デ・オーシャン(5,218トン:船客定員120名)がピピ島沖で座礁した。

事故が起きたのは11月25日深夜。同船はマレーシヤのペナンからタイのプーケットへ航行中だった。暗礁に船底を当て喫水線下に穴があき浸水し船体が傾斜しているが乗客乗員に死傷者はない模様。タイ海軍の艦艇や救助船が曳航してプーケットに向かった。乗客(フランス人が78名、ドイツ人が1名)はプーケットからシンガポール経由で空路帰宅する予定。

実はこの船の前身は1989年に日本鋼管津造船所で造った昭和海運のおせあにっく・ぐれいすで、日本のクルーズ黎明期に奮闘した一隻だ。ボクは神戸から瀬戸内海を経て長崎まで乗ったことがある。船内は小さいながらも瀟洒な造りで好感がもてた。聞くところによれば設計をオランダに依頼したとか、そのためか少し喫水が浅くて外洋では揺れたそうである。でも、まだまだ頑張っていたんだなあ! (イラストはおせあにっく•ぐれいす時代のもの)   


Posted by はじめ at 07:07Comments(0)

2019年11月26日

また船のプールで少年溺死   

中国の四つ星クルーズ船で水難事故が起きた。

11月19日午後、ランカウイ港に停泊中のゲンティング・ドリーム(15万1千トン:船客定員3,360名)最上階プールで少年の水死体が見つかった。少年の年齢は10歳、休暇を利用して前日シンガポールから母親と友人の三人で乗船したもの。三泊四日のショート・クルーズだったが、またプールという群衆の中の死角で悲劇が発生したのだ。原因と事故の状況は現在現地警察署が調査中だ。(情報はcruisejunkie com.,Channel News Asiaより)  


Posted by はじめ at 07:15Comments(0)

2019年11月22日

トリンコマリー エピソード6(これでおしまい)

五回にわたってトリンコマリーのレポートを続けてきた。最後は博物館のなかで展開する18〜19世紀の波止場の演出を紹介しよう。

トリンコマリーを取り囲むように建つ建物は当時の波止場の雰囲気を再現してる。酒場、鍛冶屋、仕立て屋、雑貨屋、海図屋、食品店などなど。いずれも当時の職人や商人が熱心に働く様子をマダムタッソーばりの人形たちが演じている。最初の写真は仕立て屋の店頭。



店の中では若い仕立て職人がお客の仮縫いの真っ最中だ。奥の方では仕立て上がりの船長服に袖を通した男が鏡の前で満足げにポーズをとっている。制服を注文できるのは金持ちの士官でなくては出来まい。







隣の鍛冶屋では店主がお客に出来立ての剣をうやうやしく差し出していた。士官たちは大金を払って自前の剣をオーダーしたのだ。











奥の仕事場では三人の職人が鋼に焼きを入れたり、剣の柄に柔らかな革を巻いたりしている。なかなか蝋人形たちの芸は細かい。








他にも銃砲店や海図店などが看板を掲げている。店には戦闘用の大型短銃もあれば私服のポケットにひそめる小型拳銃もあった。イギリスの海洋冒険小説の世界にもぐりこんだようだ。

荒物屋の前を通りかかったら甲板長の衣装を着た職員が子供連れの入館者に面白可笑しく説明をしていた。新米の水兵が乗船前に買いととのえる個人装備を入れる信玄袋みたいな布袋、石のように堅いパン、ロープ作業に使うマーリンスパイク(先端が尖った木の棒)の使い方、規則違反者を鞭打つキャット・オ・ナインテール(九尾の猫鞭)などなど、聞き手の少年は眼を輝かしていた。








酒場の奥からプレスギャング(強制徴募)の大騒ぎが聞こえてきた。別の建物には子供向けの操船教室に使うマストとヤードの模型もある。子供連れがここで長時間過ごせる工夫がたくさんあった。






あれこれ見ていると時間がたつのを忘れる。頃合いを見てカフェで一服しよう。ここではコーヒー、紅茶をはじめ田舎風のスープなど軽食を食べることができた。ロンドンから急行列車で3時間、トリンコマリーは帆船好きにはたまらない博物館だ。名残は尽きないがレポートはひとまずおしまいにしよう。

次からはロシュフォールに停泊するフランス海軍の帆装フリゲート艦エルミオーヌのエピソードを紹介しよう。  


Posted by はじめ at 07:16Comments(0)

2019年11月19日

トリンコマリー エピソード5

コンステチューションとの因縁
いま完全な形で海に浮いてる木造帆装フリゲート艦は、世界中でボストンのUSSコンスティチューションと、ハートリプールのHMSトリンコマリーの二隻だけ、と言ってもいい。前者は1797年就役で後者は1817年だから人間なら10歳の年齢差だが、その10年間に両者の運、不運があった。(下の写真はボストン港で撮ったUSSコンスティチューション)

アメリカとの第二次米英戦争が始まった1812年の話、木材不足からインドでフリゲート艦の建造を決めたイギリス海軍は、新フリゲート艦の設計図をボンベイの造船所に送ることを決めた。折からインド総督として任地に赴くサー・トーマス・ヒスロップ中将のために、フリゲート艦ジャヴァが派遣されることになった。新造船の図面は船底被覆用の銅板と一緒にジャヴァのランバート艦長に託された。(下の写真はレダ級フリゲート艦の設計図)

ジャヴァは元フランス海軍のフリゲート艦レノミーで、1811年マダガスカル沖でイギリス海軍に捕獲されたもの。18ポンド砲28門のほか32ポンドカロネード砲を16門という重武装のうえ速力も優れた船だった。11月、新任総督を乗せたジャヴァは本国を離れ一路大西洋を南下し、アフリカ大陸を廻ってインド洋をめざした。船内は通常の乗組員に加えて総督の部下や護衛兵ら100名近い人間が加わり混雑を極めていた。ジャヴァは途中飲料水を補給しようとブラジルへ進路を変えた。それが運命の分かれ目になった。

12月29日朝、アメリカ海軍のフリゲート艦コンスティチューションもブラジル沖にいた。半年前、ハル艦長の指揮でイギリス海軍フリゲート艦ゲリエールを撃破して国中の賞賛を浴びたコンスティチューションは、ベインブリッジ新艦長を迎えての再出撃だった。ベインブリッジは地中海のバーバリ海賊作戦を経験したベテランだが、トリポリ湾でフリゲート艦フィラデルフィアを座礁させ、300人の乗員と一緒に捕虜になった不名誉を背負っていた。部下のなかにはツキのない艦長に従う不運に不満を漏らす者が少なくなかったが、ベインブリッジにとって今回の任務は名誉挽回の好機だった。(下の写真はコンスティチューションの24ポンド・キャノンと手前が32ポンド・カロネード砲)


ベインブリッジが受けた命令は軽フリゲート艦エセックス、スループ艦ホーネットを伴いアメリカ商船隊の保護とイギリス通商路の破壊だった。08:00水平線に帆影を見たとき、ベインブリッジは味方のエセックスかと疑った。接近しながら互いに信号旗を揚げて敵味方を探り合う。午後2時、双方半マイルに接近、ジャヴァは右舷砲で、コンスティチューションは左舷砲で砲撃を開始。壮烈な撃ち合いになる。コンスティチューションの舵輪が舵手2名とともに粉砕され操舵不能。やむなく伝令を使って二層下の操舵索で操船を続ける。ベインブリッジ艦長は左尻に銃弾で負傷。二隻は敵の船首尾に縦射できる位置を求め操船と砲撃に死力を尽くした。ランバート艦長は味方の多勢を生かして敵船に接舷斬り込み戦を図るが、ベインブリッジ艦長は24ポンド砲の利点を生かした砲撃戦で応じた。

砲撃開始から50分ほど経過したとき、コンスティチューションの24ポンド砲弾がジャヴァの前檣を撃ち倒した。倒れたマストに船首甲板を覆われたジャヴァの戦闘力が弱まった。30分後、ランバート艦長が敵の大砲が発射したマスケット散弾を浴びて重傷を負い下甲板に運ばれ、代わってシャッヅ大尉が指揮をとる。双方の距離は縮まり40ヤードを切る近さ。午後4時、ジャヴァの後檣が倒壊、主檣だけになり操船も困難になる。勝利を確信したコンスティチューションは一旦敵船から距離をとって後退し、味方の負傷者の介護と船の応急修理をした。その間にジャヴァも応急帆装を施し、わずかに操船力を回復し戦闘再開に備えた。1時間後、コンスティチューションの再攻撃がはじまる。ベインブリッジ艦長は船を敵の船首側につけ絶好の縦射位置をとった。ジャヴァは動けず万事休す。シャッヅ大尉は味方の敗北を認め軍艦旗を降ろして降伏を伝えた。朝から始まった戦闘は日没に至り終息した。

ジャヴァの損害は甚大だった。帆も索具もズタズタでマストは全て倒れ、船体は穴だらけで浸水が続いていた。乗員377名中戦死者22名、重傷者102名。対するコンスティチューション側の戦死者は10名、重傷者42名だった。コンスティチューションもすぐに修理が必要なほど損害を受けていた。ベインブリッジはただ1隻残ったボートを夜通し往復させてジァヴァの生存者を全員コンステチューションに移乗させた。翌朝、ジャヴァは火を放たれて沈没。ジャヴァの積荷だったトリンコマリー用の銅板も設計図も全て失われた。コンステチューションはイギリス人捕虜を近くのブラジル沿岸にはこび宣誓させて釈放。重傷のランバート艦長はそこで死亡した。コンスティチューションは修理のため母国へ引き返し戦争が終結するまでドックから動けなかった。トリンコマリーの建造を見事に妨害したコンスティチューションだが、現在はトリンコマリーと二隻そろって昔の姿で保存されているのは歴史の巡りあわせだろうか。  


Posted by はじめ at 06:53Comments(0)

2019年11月15日

トリンコマリー エピソード4

どちらかと言えばツイてない前半生だった

英国海軍フリゲート艦HMSトリンコマリーは、18ポンド砲38門搭載の勇ましい姿にもかかわらず大きな手柄話がない軍艦だった。ボンベイで完成したときはナポレオン戦争も終息し、アメリカとの戦争も停戦条約が結ばれ軍艦の出番はなくなっていた。トリンコマリーは丸腰で母国に移動すると、マストを外され甲板には屋根がかけられてポーツマスに長期繋留された。そしてそのまま25年間が過ぎた。

1845年、トリンコマリーは古い18ポンド砲に代わって近代的な大砲が持ち込まれコルベット艦に改装された。下甲板に鉄製の飲料水タンクが取り付けられたのもこのときだった。それは蒸気機関が帆装に代わり、鉄材が木材に代わって甲鉄艦が登場する日も近かった。1847年、トリンコマリーに初めて任務が与えられた。時代遅れの帆装軍艦だがイギリス海軍コルベット艦として大西洋から西インド諸島海域で奴隷貿易の監視をしたり、カナダ・ニューファンドランド海域の漁業監視や、カリブ・キューバ海域のアメリカ海軍警戒任務を3年間務めた後も1852年からは南北極洋から太平洋、南米海域の巡航パトロールに就き、5年間で11万マイルに及ぶ航海を続けた。戦火を知らぬトリンコマリーの現役はそこまでだった。

1860年、母国に戻ったトリンコマリーはサンダーランドやハートリプールの港に係留され、15年間も砲術練習艦を務めた。建造から半世紀以上の時が過ぎ去っていた。ポーツマスに移り武装を解かれ解体を待つ身になったトリンコマリーに、救いの手をさしのべる人物が現れた。青少年の海洋訓練の必要性を訴えるゲオフレイ・ホイットニー・コッブ氏だ。1896年、氏はトリンコマリーを買取り、全面改装して練習船に仕立て上げ、その名もフォードロイヤントと名付けた。フォードロイヤントは1980年代までに延べ7万人の青少年を育成した。


しかしコッブ氏の亡き後、衰退したフォードロイアント財団は練習船の維持管理が困難になった。1986年、歴史的価値ある19世紀軍艦の復元整備が決まった。2016年、1千万ポンド余の経費と15年の歳月をかけたフリゲート艦トリンコマリーがハートリプールで復活した。

  


Posted by はじめ at 06:53Comments(0)

2019年11月12日

ガラパゴスで座礁   

トリンコマリーのエピソードを中断してクルーズ船の話題をはさみます。

11月5日の夕刻、ガラパゴス諸島でクルーズ船が座礁した。船はセレブリティ・エクスペディション(2,842トン:船客定員100名)で、11月2日にエクアドルのキトを出航してガラパゴス・クルーズに従事中だった。報道によれば沈没の危険はないらしいが、動けなくなった船から乗客46名(定員より少なかったようだ)と非正規乗員の若干名を近くにいた僚船セレブリティ・フローラに移乗させてキトへ送還する手配を行った。

ガラパゴスはご承知のようにダーウインの名とともに有名な島。映画「マスターアンドコマンダー」のロケ地でもあった。セレブリティ・エクスペディションは小さいながらも設備が整った探検クルーズ船だ。キトを起点にした10泊クルーズの料金は安い部屋で$6,899!(約75万円だが、それに日本・キト往復航空運賃がプラス)セレブリティでは今回の船客全員に料金全額払い戻しと次回クルーズの無料優待を申し出ているとか。(情報はCruise criticおよびcruisejunkie com.より)  


Posted by はじめ at 06:34Comments(0)

2019年11月08日

トリンコマリー エピソード3  

復元船のむずかしさ

オーロップ(下層甲板)の低い梁に頭をぶつけながら見学を続けたあと上甲板に戻った。上の写真は船尾から船首方向を見たもの。手前からミズンマスト(後檣)、メインマスト(主檣)、フォアマスト(前檣)が林立する。甲板の横幅は充分あるようにみえるが、これでもアメリカのコンスティチューションとくらべれば1mほど狭い。

前檣と主檣の間に本船最大のスペースがある。トリンコマリーの場合ここは露天の広い開口部だが、いまはカンバスで覆い手摺をつけてある。航海中この空間に大型ボートが複数重ね置きされた。現在雨よけの白いキャンバスがかかっているのは下甲板への階段入口で四ヶ所ある。

ウエストと呼ばれるこの開口部分を旧式の船でみるとこのようになる。写真はトリンコマリーの後で訪れたフランスのフリゲート艦エルミオーネの露天甲板。幸か不幸か雨降りの日だったから、ご覧のよう砲甲板は大砲も人間もずぶ濡れになる。(エルミオーネについては改めて詳しく触れます)


前檣近くのロープ架にさりげなく留められている動索。現在のトリンコマリーに帆布はなく航海に赴く予定もないが、まるで見えない水夫が乗っているような雰囲気。帆船模型を作るひとには大いに参考になる景色でしょう。


これは主檣のトップボードを見あげた写真。今は甲板を照らす照明灯やスピーカーが載ってるが、昔なら海兵の狙撃手や旋回砲が陣取った所だ。




足元に眼を転じよう。絶えず風雨や潮水にさらされる甲板材。チーク材かどうかわからないが、まだまだ耐久できそうな感じだ。







1817年生まれのトリンコマリーが現在の姿になるまでの紆余曲折は別の章で語るとして、現在の姿は1990年から15年間を費やされた復元工作の結果である。内外装の不良箇所は交換され、船底の銅版も新品に張替えられた。古い鉄釘は新設計のシリコン合金製に取り替えられたという。


上甲板で大砲を叩いて廻っている時、ボクはマストにも何気なく手を触れ、その異様な冷たさに気づいた。拳で叩くとカンッ!といった。そう、マストは鉄なのだ。もう一度上甲板をひとまわりして確かめたら、三本のロアー・マストとバウスプリット(船首斜檣)がいずれも鉄製だった。




トリンコマリーの資料をみたら鉄製に間違いなかった。やはり長期保存を優先した場合、木材製と鉄製では製造コストと保守コストが段違いなのだ。

参考までにボストンで撮ったコンステチューションのマストの基部を見てみよう。これは外して陸上に横たえてあった予備のマストだが、断面をみると複数材を束ね鉄輪で締めている様子がわかる。




現実に現代の鋼鉄製帆船海王丸、日本丸はマストもヤードも鉄製だ。しかし歴史的木造帆船として保存されている船の場合、ボクのわがままかも知れないが一部分が鉄製に変えられているのは残念でならない。

複数の材木でマストを形成する場合、ロープやフープ(鉄輪)で束ねるが、いまのトリンコマリーのように一材の鉄菅マストなら束ねる必要はない。しかしご覧のように鉄輪で締めて往年の姿の再現に努めていた。それにしても改めてトリンコマリーを眺めると、木製とか鉄製という次元を超越してマストもヤードも憎らしいほど背筋を伸ばしカッコいいなあ。(このあともトリンコマリーの話を続けます)  


Posted by はじめ at 06:56Comments(0)

2019年11月05日

初の中国製ビスタ級クルーズ船   

トリンコマリーのエピソードは続けているが、久しぶりにクルーズ船の話をはさむ。Cruise Industryの伝えるところによると中国でなんとも奇妙な船が造られるようだ。

世界最大級のカーニバル・クルーズグループは上海のWaigaoqiao Shipbuildingと新造クルーズ船2隻の建造契約を結び、このほど完成予想図と模型を公開した。発表によると船はカーニバルのビスタ級を下敷きにした13万5千トンで2023年後半に完成引渡が予定されるという。面白いのはその外観で、船体にはAIDAクルーズの「目玉」ペインティングが施され、最上層にはコスタの黄色い二本煙突と、その基部にAIDAのロゴが描かれていた。それは将来さらに躍進する中国市場を睨んだカーニバルの多ブランド戦略なのだろうか。クルマに例えればフロントグリルにTOYOTAマークがあり、トランクリッドにSUBARUマークが光ってるという感じ。いまや航空母艦を国産できる中国だ。設計図付きのビスタ級の建造などお安い御用かもしれない。ちなみに建造費は1隻あたり約840億ドルという。(情報はCruise Industry Newsより)
  


Posted by はじめ at 11:55Comments(0)

2019年11月01日

トリンコマリー エピソード2


トリンコマリーは古式な石造りの家に囲まれ係留されていた。渡り板をわたるとガンデッキ(砲甲板)だ。左右両舷に配置された18ポンド・キャノン砲が並んでいる。全幅は12.1mでアメリカのコンスティチューションより1.3mほど狭いが感覚的には同じくらいの広さに感じる。建造時には18ポンド砲が38門、32ポンド・カロネード砲を12門載せていたという。



問題はこの大砲だ。写真で見たときから「妙な色艶」が気になっていた。いま手でふれ、叩いてわかった。非常によく出来た樹脂製レプリカだった。大砲は重い。実物なら砲架含めて1門2.5トンもあるから50門載せたら大変な重量だ。








いくら丈夫な船でも無駄な重量を長い歳月かけられたらどこかに歪みが出るだろう。説明員に尋ねると、現在実物の鉄製砲は4門だけだ、という。ボクは大砲を叩いて廻ったがその通りだった。しかし叩かなけれわからないほど、よく出来た複製だった。






ここは国立博物館だが子供たちにも親しめるような展示方法にはずいぶんと工夫をこらしている。例えば昔の軍艦の乗員の生活ぶりの再現だ。艦長室の警護に立つ海兵。









烹炊場で調理する炊事兵、ハンモックで窮屈そうに横たわる水兵など様々な蝋人形が見学者を出迎えてくれる。人形たちはマダム・タッソー館に劣らぬ良い出来ばえだった。緑色の鉄柱は臨時の補強柱。気になるね。







船尾の艦長室は船の横幅全てを使って広々とした特等室だ。だが戦闘時にはこの部屋にも大砲を据えつけることもある。








張り出し窓の中は艦長専用トイレになっている。残る400人近い乗員は船首の露天共同トイレなんだから、艦長、司令官の特別待遇は大変なものだ。




砲甲板の後方両舷には士官個室が並ぶ。それぞれは寝台がひとつでいっぱいの広さだが、この船の中でプライバシーが保てる空間をもてるだけで天国だろう。個室に囲まれるようにして大テーブルが据えてある。会食に会議に、あるいはトランプや遊びに使われたのだろう。






艦内見学はかなり自由で船底まで覗かせてくれる。火薬庫のある最下層デッキは天井がかなり低い。こりゃパウダーモンキー(火薬運びの少年兵)が重用されたわけだ。火薬庫の扉は金属の接触による火花を避けるため銅板が張ってあった。でも暗いねえ。






インド産のマラバー・チーク材をふんだんに使った甲板。所々で見かけたねじり模様の支柱は、トリンコマリーの生地インド独特のデザインだとか。軍艦なのに装飾が許されるゆとりの時代だった。(トリンコマリーの話、次回に続きます)  


Posted by はじめ at 06:04Comments(0)