2020年06月30日

続 追想の貨客船 その4 フランス郵船の黒かぶと    

MM(フランス郵船)の白い三銃士を書いてたらMMの黒かぶとを思い出した。大急ぎで一章書き足します。あの頃、MMの三銃士のような大型貨客船の日本来航はまれで、ふだんはもっぱら貨物船が多かった。それをMMで言えばラ・シンディやティグリのような船。ラ・シンディは1956年建造で8300トン。ゴダベリイ級10隻の1隻だ。8000馬力のBWディーゼル機関で16ノットの航海速力に船客定員は6名という標準的な貨物船だった。白塗りの三銃士と対照的にカラスのような黒塗りの船体に逆V型のマストを立て、白いハウスに黒い鉄かぶとを伏せたような煙突が特徴だが、まあフランスらしいお洒落な雰囲気はなかったなあ。

1967年、エジプトvsイスラエルの第三次中東戦争が始まったとき、運悪くスエズ運河を通航中だったラ・シンディは航路を閉鎖され運河に閉じ込められてしまった。戦闘は6日間で終わったが運河の通行は許されず、ラ・シンディが解放されたのは1975年だった。不運な船は翌年サウディアラビアに売却された。次回はハンブルグ・アメリカラインの極東路線  


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2020年06月26日

続 追想の貨客船 その3 MMの白い三銃士  



ランスも戦後早くから商船の日本寄港に熱心だった。特にMMで知られるマサジェリー・マリチムス(フランス郵船)は中近東、インド経由の極東路線充実のため3隻の新造船を計画し、それまでのつなぎに戦中船のラ・マルセイユズ(18,420トン:船客定員400名)を投入した。
ラ・マルセイユズはマレシャル・ペタンの名前で建造途中、1944年マルセイユ近海でドイツ軍に擱座された船。フランスはそれを引き揚げて修復しラ・マルセイユズと命名した。1949年MMの定航船として最初に日本を訪れた客船はこの船だ。余談だが作家の遠藤周作さんが1950年にフランス留学の際に利用したのがこの船。船底近い4等船室で雑魚寝をした辛い経験談が残されている。その後ラ・マルセイユズはたびたび移籍を重ね、最後はコスタに買われてビアンカCと改名した。

て前置きが長くなった。MM三銃士の話にはいろう。3隻の新貨客船は予定通りに次々と完成した。まず1952年夏に第一船ベトナム(13,162トン;船客定員347名)続いて1953年に第二船カンボジャ(13,520トン)、翌1954年に第三船ラオス(13,522トン)が極東航路に就航した。そのルートはマルセイユを起点にして地中海を東進し、ポートサイド、スエズ、アデン、ジブチ、ボンベイ、コロンボ、シンガポール、サイゴン、マニラ、香港、神戸、横浜が折り返し港になる。

体からマスト、煙突まで白一色に塗られた3隻はMMの三銃士に例えられ人気があった。347名の船客のうち1等船室の定員は117名で船体中央部でプールがあった。2等船室は船尾側で定員110名、3等船室は選手側で定員120名だった。青く塗られたきれいなプールがあって一等船客は優先的に使えたという。映画タイタニックでも三等船客の雑居部屋の様子が描かれていた。戦後は鉄道や船は乗客の等級別サービス格差が少ない「民主的」な待遇が主流になったが、近頃はカジュアル船が〇〇クラブと称して一部の施設利用をエサに別途料金を設定する傾向がある。






  


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2020年06月22日

ダイヤモンドよ 今いずこ  


コロナウイルス禍を浴びたクルーズ船たちは今どこでどうしてるのだろう。何気なくダイヤモンド・プリンセスの所在を追ってみて驚いた。(いや別に驚くことでもないが)横浜を発ったダイヤモンド・プリンセスはマニラ湾の沖に停泊していた。それがダイヤモンドPだけでない。なんと周囲にはプリンセスの僚船を含む20隻以上のクルーズ船がいるではないか! いつ再開するかわからない次のクルーズのため、貧乏くじをひいた保安要員だけを乗せ、マニラの沖に浮かんでいる。船には定期的に燃料と食料を補給しなければならない。クルーズ業界は本当に大変だなあ。

同じような状況は世界的に起きていた。シンガポール沖、地中海はコルシカ島とシシリー島近海、アメリカはマイアミ沖、どこもクルーズ船が「メダカの学校」状態で停泊していた。マニラ沖にいる船名だけ並べてみると次の通り。ダイヤモンド・プリンセス、アイランド・プリンセス、ロイヤル・プリンセス、パシフィック・プリンセス、シー・プリンセス、サン・プリンセス、マジェスティック・プリンセス、サファイア・プリンセス、クラウン・プリンセス、コスタ・アトランチカ、コスタ・セレナ、フォーレンダム、ノールダム、ロッテルダム、アムステルダム、クイーン・エリザベス、ボイジャー・オブ・ザ・シーズ、パシフィック・アドベンチャー、パシフィック・エリア、カレドニアン・スカイ、パシフィック・ドーン、パシフィック・エクスプローラー、カーニバル・スピリット、カーニバル・パノラマ、ノルウエイジャン・スカイ(図面情報はCruisemapper comより)  


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2020年06月19日

続 追想の貨客船 その2 20世紀の南蛮船

前回とりあげたAPL(アメリカン・プレジデント・ライン)が初めて日本にやってきたのは1947年だった。それから遅れること数年、ヨーロッパから次々と客船(貨客船)が日本に姿をみせるようになる。まずオランダのRIL(ロイヤル・インターオーシャン・ライン)オランダは江戸時代初期から日本と交易実績をもつ国だ。土地勘もあればメンツもあったのか、1952年に新造貨客船を派遣してきた。

20世紀の「南蛮船」の名はストラート・バンカ(9,138 トン)で姉妹船ストラート・マカッサルと共にロッテルダムの造船所で造られた。ディーゼル機関で巡航16ノット。船客40名を収容する客室設備を持つ。RILの極東航路は南アフリカを経由して南米アルゼンチンに至るもので、横浜、名古屋、神戸、釜山、那覇、香港、シンガポール、ポート・スウェっテンハム、ペナン、モーリシャス、ロレンソ・マーカス、ダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウン、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、リオ・グランデ、モンテビデオ、ブエノスアイレスで復路は往路の逆順になる。横浜からサントスまで約40日間を要したが、日本とブラジルを結ぶ数少ない航路のひとつだった。ストラート・マカッサルは当初インド・オーストラリア線に配船され、のちに極東線に変わり船名がティネガラに改名された。

ストラート・バンカの客室はハウスの下層Bデッキだった。二つある一等室は船首寄り角部屋で、前向きと横向きに合計三つも窓があった。その他の客室は廊下をはさみシングル、ツイン合わせて12部屋全てオーシャンビューだった。個室には浴室、トイレもあり豪華ではないが快適な船旅ができた。Bデッキの上はAデッキで、前方にはサロン、バーカウンター、読書室があり、後方には40名の客が全員一度に食事をとれるテーブルがあった。Aデッキの外は遊歩甲板で両舷合わせて4艘の救命ボートがあり、1961年の改装では後方にプールが設けられた。RILはAPLや後述するフランス郵船の貨客船に比べ乗船客数が少ない分、それだけ丁寧なサービスが期待できた。RILでは事務長に中国人を採用することはあっても、船長だけは必ずオランダ人を採用した、と聞く。乗客は日本人より外国人が圧倒的に多かった。

1971年ストラータ・バンカはシンガポールのマーキュリー海運に売却され、マーキュリー・レークと解明、リベリア船籍になった。その後1978年中国に売られて解体され船齢26年というまだ「若い」一生を終えた。一方姉妹船のティネガラも1972年に売却されてマーキュリー・ベイに改名、さらに移籍と転売を繰り返し1979年パキスタンの解体業者の手に渡った。(次回はMM 白い三銃士)  


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2020年06月12日

再開 追想の貨物船その1 いよっアメリカン大統領!

このブログの読者、三郎さんからメールをいただいた。彼は昭和の貨物船ファンで特に日本郵船のSクラス(隅田丸や西京丸)がお好きという。三年前に書いた記事にメールをもらい、すっかり意を強くしたボクは「追想の貨物船(貨客船を含む)」の続編を書くことにした。と言ってもボクは郵船のSクラス時代に海運業界から足を洗ったので、その以降の船は残念ながらナマで見ていない。だから残っている資料写真を参考におそるおそる書くしかない。まず、それを冒頭でお断りしてエピソード2の再開を宣言しま〜す。


再開第一回はこれまで素っ気なくしてきた客船、貨客船からはじめよう。今でこそ日本出発のクルーズ船はよりどりみどりであるが、日本人は戦後しばらく海外旅行どころではなかった。そんな1947年にいち早く日本に来た客船は戦勝国アメリカのAPLプレジデント・ポークとプレジデント・モンローだった。いずれもアメリカ政府が太平洋戦争中に建造した兵員輸送船を改装した船だった。

翌年、プレジデント・クリーブランドが極東定期航路に加わった。起点はサンフランシスコでL.A.に寄り、ホノルル、マニラ、上海経由で横浜という36日間コース。翌年追いかけ竣工した姉妹船プレジデント・ウイルソンも同じコースに就いた。2隻とも無用になって係留されていた輸送船でタービンエンジン仕様とターボ・エレクトリック仕様を化粧直しをしたものだ。両船とも1万3千トン、主機2万馬力で19ノット。1等船客324名、ツーリスト454名の設備をそなえていた。低く長いハウスに二本の煙突が立つ姿は、現代のクルーズ船と比べればスレンダーなアスリートみたいな機能美を感じるが、もともと軍用船だ。内装は地味でシアターやプールも無い。ツーリスト級の食事は海軍の士官食堂並の水準だと陰口を叩かれた。何しろ株主が政府なんだから商売気は希薄なのは仕方ないけど。

1953年、プレジデント・ウイルソンは当時日本の皇太子殿下が英国エリザベス女王の戴冠式に出席するために乗船したことで日本人に知名度があがった。(残念ながらボクはP.ウイルソンもP.クリーブランドも生で見ていない)APLは1950年6月に始まった朝鮮戦争で客船活動は一時鈍化したが、その後も中古船の借り出し改装を続け船腹を増やし西回り世界一周コースも始めた。1960年にはP.クリーブランドとP.ウイルソンは部分改装を施した。しかし不経済な戦時型高速船は燃費効率が悪い。より良質なサービスを提供する競合船も登場する。旅客数も減り極東コースは1隻で間に合う。折から渡洋型ジェット旅客機も登場してきた。P.クリーブランドは1974年の197次航を最後に、P.ウイルソンは1973年200次航を最後に戦列から消えた。(次回はオランダRIL)  


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2020年06月06日

アメリカ南部に進出するバイキング 

クルーズ中止の暗いニュースの間に明るい話題も聞こえる。バイキング・リバークルーズは2022年夏に就航させるミシシッピ川クルーズの先行予約の受付を始めた。バイキング・リバークルーズは中国、ヨーロッパ、ロシア、エジプトで30年以上の実績を重ねる企業。同社の上質なホスピタリティには高い評価が寄せられている。そのバイキング・リバークルーズが従来のアメリカ外輪船イメージを一新する新造船の予約受付をはじめた。

バイキング・ミシシッピと呼ばれる新造船は伝統的な平底型で底喫水の5層建てだが、おなじみの大きな外輪式推進装置はない。ヨーロッパ水域に展開している3層型ロングシップを垂直に5層重ねたようなモダン・デザインだ。客室は全てアウトサイド窓付の193室、乗客定員386名。発表されているクルーズコースはミシシッピ河と隣接するルイジアナ州、ミシシッピ州、テネシー州、ミズーリー州、アイオア州、ウイスコンシン州、ミネソタ州の7州に及ぶ。都市名ならメンフィスありバトンルージュあり、ゲティスバーグ、ニューオーリンズ、セントルイスなど多彩。料金は8日間クルーズ$3,699から。(同社のヨーロッパ水域料金より少し高額かな?)

しかしミシシッピ河には昔から伝統的な蒸気式リバーボートがしっかり営業している。有名なところではAQSC(アメリカン・クイーン蒸気船会社)がそれ。同社は南部にアメリカン・クイーン、アメリカン・ダッチェス、アメリカン・コンテスの3隻を、また太平洋側にはアメリカン・エンプレスの1隻を就航させている。いずれも昔ながらのショーボート風デザインで、船尾に大きな外輪式パドル、高々とした二本煙突という外観でアメリカ人のノスタルジーを刺激している。だが二年後のミシシッピ河はバイキング・リバークルーズの進出で決戦の場になるだろう。AQSCは来年度クルーズの早期予約客には1室$1,400の大幅値引きを発表し、早くもバイキングを迎え討つ姿勢をあらわにしている。(情報はDaily Memphian,Cruise Industry News,より)  


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