2019年12月31日

エルミオーネ エピソード5(最終回)  

エルミオーネの来歴
復元船の原型になったのはアンリ・シェビラルが設計し1779年に造られたコンコルド級フリゲート艦3隻の1隻だった。12ポンド砲を主砲にして速力と操船性能のよさが特徴だ。

船名はHermioneと綴り仏語でエルミオーネと読む。映画ハリーポッターのガールフレンドも同じ綴りだがハーマイオンと英語読みしてた。エルミオーネはギリシャ伝説のスパルタ王メネラウスとその妻ヘレナの娘だ。ヘレナは別名トロイのヘレン、大戦争の因になった絶世の美女。その娘だからエルミオーネもさぞかしベッピンだったろうな。通常船首像は船名にちなむものだが、復元船はいかめしい獅子の彫像なのが可笑しい。でもフランス海軍はエルミオーネという名前がお気に入りのようで、現代までに13隻の軍艦にエルミオーネの名をつけている。

1779年4月、ロシュフォールで進水したエルミオーネは、翌年3月艤装を済ませるとラファイエット将軍とフランス義勇兵を乗せて独立戦争真っ盛りのアメリカ大陸へ向かった。19歳のラファイエットはワシントン司令官のもとで奮戦した。(左の写真は復元船)
エルミオーネは勝敗を大きな戦功には恵まれなかったがよく戦って無事に帰国した。当初は劣勢のアメリカ独立派をわざわざ出かけて支援したフランス人の熱意と勇気は立派です。エルミオーネはアメリカ独立戦争が終わり母国に戻ったが、1793年9月、水先案内人の不手際でビスケー湾に面したル・クロアジック近くの岩礁に接触して惜しくも海没した。



1992年、国際海事センターの専門家の提案でエルミオーネの復元船建造が決まり、その五年後に建造が始まった。建造に際しては現代の電動工具の使用を極力廃し、できるだけ昔の材料を使い、昔の道具と工法を用いるよう心がけた、という。大釘は鍛治職人が手作りした。ただし梁を固定する大事な大釘は耐久安全性を考慮してステンレス製ボルトを使っている。



ロアーマストは複数の木材を束ねているのだが、隙間から水分を吸って腐食しないよう特別の接着剤で結合している。帆布と索具はナイロン製を廃し、昔ながらの天然麻を用いている。デッドアイや複合滑車も全て手作りだ。(復元の意義を考えるとき、城の天守閣をコンクリートで再建した事例は恥ずかしい)


これらの作業はドックに仮設された作業場で一般公開され、見物料は建造費に算入された。2012年ようやく進水式をあげ、2015年春とうとう全長65m、全幅11.24m、喫水5.78m、排水量1,166トン、乗組員72名の三檣全装帆船が完成した。エルミオーネは現代の国際法に沿ってディーゼル発電機も装備し、船底にアジマス・スラスターも備えている。また要所に照明器具と操舵室にレーダーや通信機など近代の航海設備も完備し、2015年にはアメリカ東海岸訪問航海と2018年地中海沿岸巡航を無事に済ませている。重心の安定のため大砲はほとんど軽量のダミーだというが、セレモニーで礼砲を撃つ必要もあろうから鉄製の大砲もいくつか載せてるだろう。

かけ足で英仏二隻のフリゲート艦を巡り歩いてきたが、こうして明るいブルーに塗られたエルミオーネと黒揚羽みたいなトリンコマリーの塗装を比べると興味深いものがある。世界には他にも興味深い帆船が大事に保存されている。

さてトリンコマリーとエルミオーネのエピソードも今回で全て終了、今年の「船の雑記帳」はこれでおしまいです。来年もさまざまな船の話を探して綴りたいと思います。どうぞ佳いお年をお迎えください。  


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2019年12月29日

カーニバルの迅速リカバリー 


コズメルで僚船にごつんとやられ船尾を削られたカーニバル・グローリーは、現地で24時間応急修理を施してクルーズを続行した。写真をみると壊れた3、4階部分に上からすっぽり鉄板をかぶせて上手にカバーしてある。ここはダイニングルームで展望サロンではないからあまり支障ないのだろう。クルーズ日程が1日短縮した船客にはお詫びのしるしに100ドル(一室あたり)の船内クレジットが配られた。迅速のリカバリーはお見事!さすがトラブル慣れしているカーニバルだ。写真はコズメルを出港するカーニバル・グローリー(Cruiseship Industry Newsより)  


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2019年12月27日

エルミオーネ エピソード4       


朝いちばんで小雨降るロシュフォールのドックに出かけたボクは、開門早々のフリゲート艦エルミオーネに乗船した。甲板をひととおり見物したあと、濡れて滑るタラップを慎重に降りて下甲板に向かう。

船内では四、五人のクルーが忙しそうに雨仕舞い作業をしていた。仕事の邪魔にならぬよう遠慮しながら質問をするのだが、あまり歓迎してくれる空気ではなかった。仕方ないので勝手に船内探索をする。この船はトリンコマリーと違って航海に使われるため、ドアの閉まった備品倉庫や個室区画が多い。せめて艦長室を見たいと船尾に進む。小銃を立てた立派なドアがある。これだ!

なかに入ろうとしたら後ろから声を掛けられた。女性クルーに「そこは立ち入りをご遠慮いただいてます」といわれてしまった。「じゃあ、写真を一枚撮らせてください」とカメラだけ部屋に突き入れて撮った写真がこれ。六人掛けの角テーブルと中央に仕切りがあった。艦長と司令官の二人乗船する場合、このような仕切りをすると聞いていたが、トイレは両舷側にひとつづつあるからエライ人が二人乗船しても気遣いはないだろう。

トリンコマリーでは勝手に船底までのぞいて廻ったが、ここではそれは許されない雰囲気だ。作業する人がいるし、あちらこちらに用具や備品が置いてある。ディーゼルエンジンのある下甲板まで行こうなんてとんでもない。あらかじめちゃんと筋道立てて管理事務所に願いでれば許されたかもしれない。そこが個人的愛好者の限界であります。それでも許される範囲でくまなく見物を終えたボクは一旦船を降りて外観をひとまわりする。獅子の船首像はイギリスかオランダ好みで、ちょっとフランスぽくないが堂々としていた。(次回はエルミオーネの歴史と生い立ちに触れてみよう)

  


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2019年12月22日

カーニバル・グローリー 僚船にぶつける  

12月20日朝、メキシコのコズメル港でカーニバル・クルーズの二隻が接触事故を起した。

事故を起したのはカーニバル・グローリー (11万トン)。グローリーは右舷前方に停泊しているオアシス・オブ・ザ・シーズとの接触を避けるようとして後方にいた僚船のカーニバル・レジェンド(8万5千トン)に接近。レジェンドの船首がグローリーの船尾右舷に衝突した。その結果グローリーの3階と4階の一部が破壊されダイニングルームの6人が負傷し客を避難させた。衝突の瞬間は周辺にいた大勢の見物人が携帯電話で撮影、たちまちネット動画となって広まった。折から港内は風が強く吹いていて、操船は困難を極めていたと思われる。

この日、コズメルはカーニバルの2隻のほか、オアシス・オブ・ザ・シーズ、マジェスティ・オブ・ザ・シーズ、ノルウエイジャン・ドーン、ノルウエイジャン・サン、コスタ・ルミノーサ、リーガル・プリンセスの計8隻の入出港があり港内は混雑していた。(情報はcruisejunkie com.より)  


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2019年12月20日

エルミオーネ エピソード3     

雨は降りやまない。見学者が増えないうちに写真を撮りたいボクは、屋内展示物をひととおり駆け足で見手から、ドックに浮かぶフリゲート艦エルミオーネへ向かった。船に掛けられたギャングウエイを慎重に渡り船内にはいると、そこは上甲板だった。

上甲板には見学者用に雨よけのタープが張ってあるが、あまり役にたってない。クルーはタープに溜まった水の排水に懸命だ。下の写真は船尾から船首方向を撮ったもの。左舷側の大砲は6ポンド・キャノンだ。

上甲板から一階降りたところが砲甲板になる。が、ここは露天で広い開口部になってる。主砲の12ポンドキャノンも人間もご覧のようにずぶ濡れだ。エルミオーネの武装は12ポンド・キャノン砲26門と6ポンド・キャノン砲6門の合計32門。フリゲート艦が18〜24ポンド砲を載せるのは半世紀ほど後の時代だ。





露天のおまけにガンポート・リッド(砲門の蓋)のないエルミオーネの場合、外洋で海が荒れたらご覧のように砲門から波が打ちこむ。(写真は復元エルミオーネの航海中の記録写真から)









数日前にトリンコマリーの18ポンド砲を見た眼には、エルミオーネの6ポンド砲は頼りないほど小さく見えた。しかし小さい分だけ取り回しが容易で速射もできるし、砲手も少なくて済むだろう。







比較のためにコンスティチューションの上甲板に並ぶ32ポンド・カロネード砲の砲列の写真を掲げる。高い乾舷が砲手たちを敵の狙撃から守ってくれる。












最後の写真はミズンマストから船尾方向を撮ったもの。トリンコマリーと比べてかなり狭い。がっちりとした舵輪は実用性も高そうだ。
このあと見物人が増えないうちにと、下甲板の様子を見学するのだが、その様子は次回につづく。



  


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2019年12月13日

エルミオーネ エピソード2   

オテル・ラファイエットで熟睡して目覚めれば非情な雨が降っていた。でも貴重な1日だ。雨が降っても槍が降っても見たいものを見に行かずにおくものか。見学者が少ないうちに自由に写真を撮りたい。宿の食堂が開くのを待たず「携帯食料」を頬張りながら雨支度をしてホテルを後にした。

ひと気のない街を3分も歩けばドックのエリア。フリゲート艦エルミオーネは鉄柵の向こうで雨に煙っていた。雨宿りをしながら同じ角度から何枚も写真を撮って開門を待つ。一見したところエルミオーネはトリンコマリーよりも明らかにひとまわり小型である。


定刻、キャノン砲を逆さまに埋めた誘導路を抜けて、ようやく見物客が現れる。が、有料の展示館に入らず外から船の写真を撮って帰ってしまった。







ボクは入場料€18.50(約¥2,200だよ! シニア料金はありません)を支払ってまず展示館にはいった。展示館は一部天幕を使った仮住まい建築。1997年にここで復元船の工事を始めた時の建物を、そのまま今も補給基地を兼ねて帆船の細部を説明する展示場にしている。







これは12ポンド砲を使った展示コーナー。実際の砲撃手順を説明している。









用途に合わせて使い分ける滑車の種類とその構造。説明はわかりやすい。










ご存知デッドアイとシュラウドの実物結索見本。マストを両側から支える大切な綱だ。




この広いスペースは帆の修理所で予備帆の収蔵所を兼ねているようだ。雨はやみそうもない。見物客の姿がないうちに本船を見にいこう。(以下次回に続く)  


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2019年12月10日

NZ北島の火山島   

エルミオーネ・エピソードの間隙にクルーズ関連の話をはさみます。
ニュージーランド北島近海のホワイト島で火山活動があり観光客に犠牲者がでた。これがその島。ボクはフォーレンダムのクルーズでオークランドに向かう途中でこの写真を撮った。日付は2010年12月2日。一見安全そうな無人島だけど火山は火山だ。怖いですね。


ヴァスコ・ダ・ガマ漂流!
CMVのクルーズ船ヴァスコ・ダ・ガマ(5万5千トン:乗客828名)がアデレード沖で故障し漂流している。

ヴァスコ・ダ・ガマはロンドンからはるばるオセアニアにやってきたが、12月6日朝、アデレード近海のセント・ヴィンセント湾で機関が止まり推進力を失った。現在最寄りの港から曳船が出動して介助している。危険な状態ではないが電力が消えた船内では調理もトイレの作動も停止し船客たちは当惑しているだろう。同船は1992年建造の元ホランド・アメリカ・ラインのスタッテンダムが前身。渋く落ち着いたインテリアが素敵な船でした。船齢30歳には至らないがかなりのお年です。写真はHAL時代の姉妹船マースダム。(情報はcruisejunkie com.,2GBより)  


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2019年12月06日

エルミオーネ エピソード1 

ロシュフォールの港へ
イギリスのハートリプールでフリゲート艦トリンコマリーを見物したあと、ボクはフランスのロシュフォールへ向かった。そこには18世紀フランスのフリゲート艦エルミオーネが係留されているからだ。時代差はあるが二隻のフリゲート艦を見較べるのは楽しそうだ。
早朝ロンドンのセントパンクラス駅からユーロスターに乗り、パリ北駅で降りたら地下鉄でモンパルナス駅へ移動し、今度はTGVに3時間乗って港湾都市ラ・ロシェルで在来線急行に乗り換え、30分ほど走って目的のロシュフォールの町に着いた時はもう夕暮れだった。ユーロスターもTGVも新幹線と比べたら室内空間は狭いし椅子幅もないが、静粛で揺れが少ない。しかし朝から三本列車を乗り継いでいささか疲れた。
石造りの立派な駅ビルは目の前で明かりを消し駅員の姿は消えた。夜7時過ぎで本日の営業は終わったのか。しばらく待ってもタクシーなんて1台も来ない。ホテルまでタクシーで行くつもりのボクは大あわて。(ここは船の話を書くブログだから列車と旅の話はほどほどにするが)とにかくボクはひと気のない異国の夜の街を大苦労して宿にたどり着いた。往年の軍港ロシュフォールも 今はかくのごとくさびれていた。




宿の名前はオテル・ラファイエット。畏れ多くもアメリカ独立戦争で勇名を馳せたフランスの若き侯爵さまの名前だが、宿は木造二階建て、部屋数は十数室。夜9時になれば管理人は自宅に帰り宿の帳場は無人になるミニホテルだった。


目的のフリゲート艦エルミオーネが係留されてる所までほんの500mほどの絶好の場所にあるのを見込んで選んだ宿である。しかも大通りに面した角地にあり、隣りは心強くも交番だが、時折パトカーがプーピー、パーポーといって出入りするのが玉にきずだった。












ロシュフォールと言えば映画「ロシュフォールの恋人たち」を思い出す人も多かろう。カトリーヌ・ドヌーブのデビュー作とも言われるミュージカル映画のロケ地だが、ボクは「シェルブールの雨傘」と混同して確かな記憶がない。いまは傘のディスプレイが空虚な商店街を飾る。






街には古い映画ポスターがまだ貼ってあった。絶世の美女も脳梗塞で倒れたという今は昔の話。とにかくボクの目的は18世紀フリゲート艦エルミオーネに対面することだった。それを次回から書こう。  


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2019年12月03日

メデューサの筏   



ルーヴル美術館を訪れた人なら、ジェリコーの大作「メデューサ号の筏」を覚えているだろう。この絵の時代背景には1816年7月アフリカのセネガルに向かう途中で遭難したフランス海軍フリゲート艦メデューサ号にまつわる悲惨な実話がある。





十月のはじめ、ボクは復元帆船を見るためフランスのロシュフォールを訪ねた。かつては軍港だった古い港だが、いまは静かに寂れた港町である。通りがかりに国立海事博物館の表示が眼にはいった。門をくぐると中庭いっぱいに巨大な木材構造物が置いてあった。傍には復元「メデューサの筏」の表示があった。


筏の大きさはテニスコート一面ほどもある。実際のところ建物の二階に登らなければ全体の写真は撮れなかった。資料によればメデューサの艦長はド・ショマレー子爵で、新たにセネガル知事に就任するシュマルツ大佐夫妻以下400名の乗員乗客を乗せ、他にも3隻の小型艦を伴う小船隊の司令官でもあった。問題はド・ショマレー艦長が政府上層部にコネはあっても艦長としての実務経験に欠けることだった。

不安は的中する。ロシュフォールを出航したメデューサは、僚船を置き去りに独走した末にアフリカ大陸西岸の洋上で座礁した。離礁に失敗した艦長は船の帆柱や帆桁などの部材で大型の筏を組み立て、遭難船が積んでいた貴重品や乗員を収容しアフリカ大陸までの約100kmをボートで牽引しようと計画した。これで150人ほどが筏に乗り、残りはボートに乗り移った。しかし混在する水兵と歩兵、同行の官僚間の対立は日増しに険悪になり、司令官には統率力がない。ボートはすぐに筏を曳く綱を切り単独行をはじめ、筏の漂流がはじまった。水も食料もほとんど積んでない筏の恐ろしい地獄の彷徨が幕をあけた。




筏は13日間の漂流を続け、はぐれた僚船に救助されたときに生き残っていたのは15人の男性だけだった。あとの140数人は飢餓と狂気に駆られ生き残るための殺しあいや、一説にはカニバリズム(人食い)によって姿を消したとも言われる。


ジェリコーは絵の制作にあたり真実を求め綿密な下調べをした。筏はメデューサの船大工から実際の構造を聞きだしている。でも絵に描かれた筏は小さい。最初に絵の筏を見たとき、これはトップボード(マスト中段の見張り台)に掴まって漂流してるのか、とボクは思った。今回初めて筏のレプリカを見て、改めてこの筏の上で展開された人間ドラマをあれこれ想像することができた。バウンティ号のブライ艦長の航海術には比べるべくもない無能な艦長が引き起こした悲劇。海事史の暗く恐ろしい一章である。(右のスケッチは記録に残された筏の図面)

次回から復元フリゲート艦エルミオーネの話をはじめよう。



  


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